2015年7月31日金曜日

デザインは爆発だ~!

1970年のバンコク博覧会の施設計画に参加する事で近代化に対する反対の立場、生命の多様性を太陽の塔を通じて表明した岡本太郎や公共建築、土木建造物の機能は担保しながら人間や生命の根源的な姿を彫刻的に現そうとしたイサム・ノグチなどは共に芸術家でした。最近は問題解決がデザインの役割であると頻繁に耳にします。医者と患者の関係と同じ様に、解決を求める側にとってどんな回答でも解決したと信じたい訳です。よって仕事は必ず完了します。クライアントとのやり取りはそれで正解なのです。しかし、クライアントの意向に敏感なだけでは不十分なのです。時代が求める欲求に敏感であるか、無言の欲求を背負って問題提議が出来るデザイナーであるかが問われるのだと思います。

一生が戦い


今はグラフィックデザインも写真表現もファッションもコーディネート感覚で簡単に表現出来ます。狭い範囲ならば趣味として楽しめます。しかし、公共性が高くなるほど影響力は増す反面多くの問題に対応する必要も発生します。クライアントから依頼された仕事の場合も同様に気を抜けない厳しい職業です。そのうえで固定観念と格闘し新しいフィールドを見出す事はデザイナーもアーティストも違いは無いと思います。一生が戦いのエキサイティングな職業です。


2015年7月28日火曜日

美術館が扱える美とは?


宗教、人種、国、文化的に異なる様々な国の人達が色々な国を旅する時
普通は訪れる国の法律や習慣に従います。自国の風習で訪れた国を批判するならば行かなければ良いのです。従って、ドイツで鉤十字の服を着るにはリスクが伴います。日本国内でも地域で風習の違いから揉め事がおこる事もあります。それが強いと排他的になり差別につながる事もあります。出来れば寛容な国や地域に旅したいものです。ベジタリアンが日本に来てすき焼きにクレームをつけたからといって営業停止にはなりません。フランスでイアスラムのブルカというベールが問題視されましたが日本では着用は自由です。その意味で日本は寛容な国に属するでしょうが果たして今はどうでしょうか、では世界中の様々な人々の多様な価値観に対して寛容な国、場所とはどこでしょう?ファンタジーかもしれませんが、それを実現しようとして政治家や教育者、芸術家が活動してきたと信じたいです。デザインは限りなく他者の視線を意識し問題が起こらない事を担保にしたうえで表現に至ります。その限りでは人間の深層に潜む美を掘り起こす事は難しいです。
醜と美も複雑に絡み合いその時々で意味合いの変わる出来事を過去の芸術家達が批判に屈せず今の私達に教えてくれました。彼らの挑戦によって開かれた表現をデザイナー達は広く公共物として応用してきた訳です。決着のつかない表現、未知の感覚、タブーであった出来事、今、それらを表して良い場所はどこでしょうか、

2015年7月26日日曜日

東京オリンピック エンブレム!

日本国民が未来に希望を抱いていた60年代と今は違います。刹那的ではありますが安定した生活者を捉えたデザインが今の東京を表わしています。しかし、阪神淡路大震災や3.11などを経験し、怒りを秘めた人達がいる事を想像するならば「志をデザインする」事は出来ると思います。いや、衝動がそうさせると思います。震災後そのマインドは芽生えたと思いまが、継続出来ずファンタジーを利用して人気者になるしかないのが現実、大学でも哲学は問わない傾向にあります。それは問うても借用された意見では意味が無いからでしょう。不可の無いオシャレなデザイン、嘗て知った崩し表現、その繰り返しに自ら浸って安心している、いや、浸らざるを得ない状況に危機感を感じます。

2015年7月17日金曜日

悩みとは、未熟さに付け込み趣味のプレーをさせる為に作りだされたもの。

http://www.geocities.jp/torikai007/1933/nazi.html

夢を失った人間が他者に趣味のプレーをさせる為に発明したものが「悩み」

最初から悩みがある人は甘い言葉で簡単に踊ります。

自己が確立しかかっている場合は説教で攻撃して弱さを見つけ出し後から付け込みます。

特に最近の若者は注意が必要です。


 

2015年7月10日金曜日

もとの環境を覆い隠す事無く、そして負荷をかけず。



見慣れた環境でも初めての人には新鮮で発見に満ち溢れています。決してオマージュに浸る事では無く発見し続ける事もクリエーションです。飽きたからといって力まかせに空間を変え権威を振りかざしても直ぐに飽きてしまいます。その権威に便乗する事無く勇気ある表現者でありたいものです。もとの環境を覆い隠す事無く、そして負荷をかけない作品を探して偶然見つかった画像です。

2015年7月4日土曜日

自分は自分の作品を作っているのか?それとも自分は誰かの作品なのか?


美大生が数クラスに教室を振り分けられ
 
統一課題で作品を制作しているのも関わらず
 
担当講師の指導スタイルや価値観によってクラスごとに作風が変わります。
 
特にファッションはそれが顕著に出やすい分野です。
 
場合によっては、学生は講師の思想の表現者になってしまいます。
 
各講師は一生懸命になるほど違いを際立たせようと頑なになります。
 
その学課の評価ポイントを以前から理解している講師は
 
上手く暗示、又は指導します。それを受け高評価を実感した学生は喜び
 
異なる価値観や自分の思惑のみで作品を制作した学生は逆に落ち込みます。
 
一定の表現がスタイル化してしまうと多様な表現はリスクです。
 
しかし、社会は、世界は、多様性に満ちています。
 
嘗てはドロップアウトした学生が社会で頭角を表す事もありました。
 
今では従順な学生が増える中、美術大学は造形表現に特化しつつも
 
多様な事態を生み出す事が大切だと思います。
 
ファッションの学びは造形から始まり造形から逸脱する事です。
 
それが社会をコンバインする切っ掛けになると思います。